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北浦和の整体。敵に塩を送る。

2021/01/11

日常では使うことは少ないけれど、スポーツやビジネスの世界では良く使われる言葉 ”敵に塩を送る”。

 

”敵に塩を送る” の意味は、「敵が苦しんでいるときに、あえて援助の手を差し伸べること。」 です。対立する相手が困っているときに、それに付け込んでやっつけようととするのではなく、あえて援助をする。なんだか、かっこいい言葉ですね。北浦和の整体の今回は、この”敵に塩を送る”についてのご紹介です。

 

しかし、なぜ援助することが塩を送るなのでしょうか? 語源は日本史にあります。

 

今日、1月11日は塩の日。「敵に塩を送る」という言葉の語源となった戦国時代の武将、上杉謙信と武田信玄の故事に由来します。1569年1月11日(旧暦)、上杉謙信の助けにより武田信玄のもとに塩が届いたといいます。

 

その背景を北浦和の整体が調べたところ…

 

桶狭間の戦い(1560年)で今川義元が織田信長に敗れ、毛利良勝に討ち取られます。今川義元亡き後、氏真(うじざね)が家督を継ぎますが、今川家の衰退は進行していきます。その様子をみて武田信玄は今川家を見限ります。

 

当時締結していた ”甲相駿三国同盟(武田・北条・今川の3家)” が1568年に破棄されることとなります。さらに、信玄は今川家の領土である駿河(静岡県)を攻め、自分の領地としてしまいます。

 

これに腹を立てた今川氏真は北条氏の協力を仰ぎ ”塩止め” を行なうことにします。塩止めとは、武田家は駿河から塩を賄っていたのですが、氏真は商人たちに武田家へ塩を売ることを禁じたことを言います。

 

塩止めにより、武田家だけではなく海に面していない武田家の領地である甲斐(山梨県)や信濃(長野県)の領地までもが苦しむことになります。当時は食品を保存するためには塩が必要だったので、塩がなくては食べ物はどんどん腐っていってしまいます。武田家も領民たちも食べ物がなくなり、いわゆる兵糧攻めとなり窮状に陥ります。

 

領民たちの窮状を見過ごすことができなかった謙信が信玄の元へ日本海で作られた塩を送ります。

 

という流れの逸話が 「敵に塩を送る」 の語源と言われています。

 

信玄と謙信は何度も合戦を繰り返しており、長年敵対する間柄でした。そんな間柄にもかかわらず、謙信は「命に係わる塩を止めるとは卑怯だ」と領民たちの窮状を見過ごすことができなかったのですから、さすが ”義” を重んじると言われるだけのことはあります。

 

この逸話では美談になっているのですが、本当の事実は違っているのです…

 

謙信は、信玄に塩をプレゼントしたわけではないのです。越後(新潟県)の塩を売っていた商人たちを甲斐まで商売に行かせただけ。しかも、相場よりも高い価格で塩を売るという商魂によるものだったのです。

 

”塩止め” に関しては、謙信にとっては信玄の自業自得に過ぎない出来事のひとつで、決して信玄を救おうとしたのではなく儲けようとしただけの話なのです。それが美談として伝わってしまったのです。

 

「敵に塩を送る」という行為は情けをかけるためや救うためではなく、相手とフェアな状態で勝負を望んでいるからだと、北浦和の整体では考えます。そう考えると「敵に塩を送る」はすごく、粋な言葉に感じられます。

 

北浦和のスポーツ整体、カイロのボディブラでは、フェアなプレイを望むアスリートにも、適切な施術、ボディケアを行なっていきます。