BLOGブログ
BLOG

北浦和の整体。沢村栄治。

2020/09/25
北浦和の整体。沢村栄治。

1936年(昭和11年)の今日、沢村栄治が日本プロ野球初のノーヒットノーランを達成しました。

 

沢村栄治は、日本プロ野球史上に残る伝説の選手の一人でもあり、戦前のプロ野球界で、NPB史上初の最多勝利を獲得。史上2人目のシーズン防御率0点台や、史上初の投手5冠に輝き、このノーヒットノーラン達成(および最多タイの3回の達成)など、さまざまな記録を打ち立てました。

 

沢村は、京都商業学校(現在の京都学園高等学校)の投手として1933年春、1934年春・夏の高校野球全国大会(当時は中等野球)に出場。1試合23奪三振を記録するなど、才能の片鱗を見せました。

 

1934年の夏の大会終了後に京都商業を中退(現在の高校3年生に相当する年齢)。その年の11月に開催された読売新聞社主催の日米野球の全日本チームに参戦します。5試合に登板(4先発)しました。

 

中でも11月20日、静岡県草薙球場で開催された試合では、7回裏にルー・ゲーリッグにソロ本塁打を浴びたのみで、メジャーリーグ選抜チームを8回5安打1失点と好投しました(スコアは0-1。ゲーリッグの一発が決勝打)。

 

もっとも、これ以外の4試合では0勝3敗・防御率10.65(20回2/3で33失点・24自責点)とまったく振るわず、草薙球場の試合を含めても、0勝4敗・防御率7.85(28回2/3で34失点25自責点)に終わりました。

 

しかし、この年の日本選抜対メジャーリーグ選抜の試合が日本の0勝16敗に終わったため、草薙球場での快投は現在でも日本で語り草となっています。

 

もっとも、この試合でベーブ・ルースは、沢村を称賛する一方で、「ちょうどバッターボックスに入って投手に面すると太陽の光源が真正面に見えるのでまぶしくて仕方がなかった」とコメントしています。なお、この試合のメジャーリーグ選抜の先発、アール・ホワイトヒルは、左腕であり球の出所が沢村と違うため参考程度にしかならないが、9回3安打完封でした。

 

その年の暮れ、全日本チームを基礎としたプロ野球チーム ”大日本東京野球倶楽部”(東京巨人軍を経て現・読売ジャイアンツ)の結成(正式な設立は12月26日)に参加しました。学校を中退してプロ入りしたのは、野球部員による下級生への暴行事件が明るみに出て、連帯責任で甲子園出場が絶望的になったためでした。

 

プロ野球リーグが始まる前の1935年、第一次アメリカ遠征に参加。21勝8敗1分けの戦績を残します。同じ年の国内での巡業では22勝1敗。翌1936年の第二次アメリカ遠征でも11勝11敗をあげています。

 

そしてプロ野球リーグが開始された1936年秋に中山武とのバッテリーでプロ野球史上初(昭和初、20世紀初、大正生まれ初)のノーヒットノーランを達成します。この年の12月、大阪タイガースとの最初の優勝決定戦では3連投し、巨人に初優勝をもたらしました。

 

1937年春には24勝・防御率0.81の成績を残して、プロ野球史上初となるMVPに選出されました。さらにこの年は2度目のノーヒットノーランも記録するなど、黎明期の巨人・日本プロ野球界を代表する快速球投手として名を馳せました。特にタイガースの豪打者である景浦將とは良きライバルで、名勝負を繰り広げてファンを沸かせました。

 

しかし、徴兵によって甲種合格の現役兵として帝国陸軍に入営、1938年から満期除隊の1940年途中まで軍隊生活を送り日中戦争(支那事変)に従軍します。前線で手榴弾を多投させられたことから生命線である右肩を痛め、戦闘では左手を銃弾貫通で負傷、さらにマラリアに感染します。

 

復帰後はマラリアによって何度か球場で倒れたり、右肩を痛めたことでオーバースローからの速球が投げられなくなりましたが、すぐに転向したサイドスローによって抜群の制球力と変化球主体の技巧派投球を披露し、3度目のノーヒットノーランを達成しました。

 

現役引退後、1944年10月2日に2度目の応召(現役兵時代を含め3度目の軍隊生活)。同年12月2日、フィリピン防衛戦に向かうため乗船していた軍隊輸送船が、屋久島沖西方の東シナ海でアメリカ海軍潜水艦 ”シーデビル” により撃沈され、屋久島沖西方にて戦死。特進で任陸軍伍長。27歳で亡くなりました。

 

戦死後の1947年7月9日、巨人は沢村の功績を称えて背番号14を日本プロ野球史上初の永久欠番に指定しました。また、沢村の功績と栄誉を称えて ”沢村栄治賞”(沢村賞)が設立され、プロ野球のその年度の最優秀投手に贈られることとなりました。

 

北浦和のスポーツ整体、カイロのボディブラでは、豪速球投手の方にも効果的なメンテナンス・施術を行なっていきます。