BLOGブログ
BLOG

北浦和の整体。無二のプロテニス選手、シュテフィ・グラフ。

2019/09/10
北浦和の整体。無二のプロテニス選手、シュテフィ・グラフ。

1988年(昭和63)の今日、シュテフィ・グラフが全米オープンで優勝。年間グランドスラムにオリンピック金メダルを加えた「ゴールデン・スラム」を達成しました。年間ゴールデンスラムを達成した史上唯一のテニスプレーヤーです。

 

シュテフィ・グラフは、旧西ドイツ・マンハイム出身の女子プロテニス選手。卓越したフットワークに加え、力強いフラット系のフォアハンドとよく滑るバックハンド・スライスを武器に、ボリス・ベッカーと、ドイツテニス界の黄金時代を築いたスター選手です。

 

WTAツアーで女子歴代3位のシングルス107勝、ダブルス11勝。女子国別対抗戦・フェドカップ(旧名称『フェデレーション・カップ』)の西ドイツ代表(東西ドイツ再統一が実現した1990年以降は、統一ドイツ代表)としても、1987年と1992年の2度優勝を飾っている。

 

グランドスラムでは女子歴代3位・オープン化以降2位となる22勝を挙げました。世界ランキング1位の在位記録は通算 「377週」 で、これは男女を通じての史上最長記録となっています。

 

3歳の時(1973年)、ブリュールにあった自宅のリビングルームで初めて木製のラケットを手にし、4歳からコートで練習を始め、5歳で試合に出場。そのわずか2年後にミュンヘンの伝統ある年少者向け大会 ”Jüngsten-Turnier” で優勝します。父親は娘の並外れた才能を確信し、彼女をプロとして成功させることに専念しました。

 

大きな転機となったのは、1981年、11歳で初めてシニアのドイツインドア選手権に出場した時のこと。強烈なフォアハンドを武器に元世界ランク80位のエヴァ・パーフをフルセットに追い込みました。この試合での活躍に注目したドイツの業界誌は、彼女を ”神童” と評しました。ナショナルコーチ連盟は類稀な才能と持ち主と、クラウス・ホフサスを専任コーチとして派遣することにしました。

 

1982年、12歳にしてドイツジュニア選手権13歳ー18歳の部で優勝します。10月には13歳4カ月でドイツのシュトゥットガルトで開催されたトーナメント、ポルシェ・テニス・グランプリに出場し、一回戦でUSオープン優勝2回の元世界ランク1位、トレーシー・オースチンに6-4,6-0のストレートで敗退。その後プロ転向を表明、WTAはグラフをプロ選手として登録しました。

 

この早期転向には賛否両論があり、専門家は 「世紀の才能」 が急激な心身の負荷によりバーンアウトする懸念を指摘しました。その1週間後、グラフは最年少で世界ランク214位となりました。

 

1983年、初めてパリの全仏オープンに出場、二回戦で敗退しましたが、その並外れたフォアハンドの強烈さから、専門家から 「今まで見た3年以内の選手の中で最も有望な選手」 と評されました。バーデン=ヴュルテンベルク州はグラフがテニスに専念できるよう、特別に中学校退校の許可を与えました。

 

1984年、全豪で3回戦進出。全英では4回戦まで勝ち上がり、センターコートで第10シードの英国選手、ジョニー・デュリーと対戦。第3セット7-9の激戦となりました。この試合を観戦した、1920年代に二度ウィンブルドンで優勝したキャスリーン・ゴッドフリーは、「2年後彼女を倒すのは難しくなるだろう」 と述べるなど、彼女の存在に世間の注目は一層高まることとなりました。

 

この言葉を裏付けるように、数週間後、グラフは最年少で参加したロサンゼルスオリンピックの公開試合で第8シードで優勝します。そして1988年のソウルオリンピック女子シングルス決勝で、ガブリエラ・サバティーニを6-3,6-3で破って金メダルを獲得し、その年のゴールデンスラムを達成します。

 

1985年には、全仏・全英で4回戦まで進出、USオープンでは4大トーナメントで初めて準決勝に進出し、優勝こそなかったが、6位までランクを上げます。

 

1987年はマルチナ・ナブラチロワと世界トーナメントの優勝を争った年でした。グラフは75試合出場し、2試合しか落とさず、11トーナメントで優勝し、さらに初めてのグランドスラムタイトルを獲得して世界ランク1位に着きます。グラフのフォアハンドはさらに強靭さを増し、ラリー戦では圧倒的に優位に立ち、完膚なきまで打ちのめすシーンが目立ちました。

 

1988年には、全豪の決勝でクリス・エバートを6-1,7-6で破って優勝。全仏オープンでは決勝でナターシャ・ズベレワを6-0,6-0、32分で退け、タイトルを防衛。これは1911年以来、大きなトーナメントの決勝では初めてのダブル・ベーグル(欧米ではゼロを丸いベーグルパンにたとえ、片方が1ゲームも取れない試合のことを 「ダブル・ベーグル」 と言っています)でした。

 

次のウィンブルドンは過去6回ナブラチロワが優勝していましたが、決勝でグラフは初め7-5,2-0でナブラチロワに押されていましたが、そこから盛り返し、13ゲーム中12ゲームを奪い、結果、5-7,6-2,6-1で初優勝します。全米オープンでは決勝でサバティーニをフルセットで破り、女子ではモーリン・コノリーとマーガレット・コートだけが達成していた、年間グランドスラムを達成。さらにソウルオリンピックの金メダル獲得によって、年間ゴールデンスラムに輝いたのです。

 

グラフのスケジュールは父親によってキッチリ管理されていたと言われます。父が早熟選手に多い ”燃え尽き症候群” を恐れていたからのようです。1985年には同世代のライバル、アルゼンチンのガブリエラ・サバティーニがUSオープンまでに21のトーナメントに出場していましたが、グラフはその半分にも満たない10トーナメントでした。父親の管理は私生活までにも及び、練習と試合だけに集中できるようにされていたのです。このため、ほとんど友だちができなかった反面、プレーは確実に向上したと言われます。

 

北浦和のスポーツ整体、カイロのボディブラでは、キッチリ管理された環境でスポーツに取り組むアスリートのニーズに合った施術を行なっていきます。