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北浦和の整体。大河ドラマ ”東京オリムピック噺”。

2019/08/10
北浦和の整体。大河ドラマ ”東京オリムピック噺”。

NHK大河ドラマ ”いだてん~東京オリムピック噺~” の後半の主人公 ”田畑政治(たばたまさじ)” についてご紹介します。

 

田畑政治は長きに渡り、日本水泳連盟会長を務めたほか、1964年東京オリンピックの招致活動におけるキーマンの一人として知られています。職業は朝日新聞の新聞記者でありながら、水泳指導者でした。田畑は 「水泳ニッポンの父」 と呼ばれる人物です。

 

田畑は1898年(明治31)、静岡県浜名郡浜松町成子に生まれます。幼少の頃から浜名湖で仲間といっしょに水泳に興じており、”浜名湖のカッパ” と言われていたようです。しかし、元来体が弱く、水泳選手になることは早々諦めていた帰来があります。

 

旧制静岡県立浜松中学校(現・静岡県立浜松北高等学校)、第一高等学校(現・東京大学教養学部)を経て、東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、1924年(大正12)に朝日新聞社に入社。その後は政治経済部長などを務め、1949年(昭和24)に常務に就任します。

 

一方で田畑は水泳指導者としても活動し、1932年(昭和7)のロサンゼルスオリンピックなどの大きな大会で日本代表の監督を務めました。

 

1939年(昭和14)には日本水泳連盟会長の末弘厳太郎が日本体育協会理事長に就任したことから、田畑も末弘を支えるべく新たに設けられた理事長に就任しました。戦後の1948年(昭和23)には日本水泳連盟の会長に就任、その年に行なわれたロンドンオリンピック参加を断られた当時の水泳日本代表(古橋廣之進・橋爪四郎ら)の実力を見せつけるべく、日本選手権の決勝をロンドンオリンピックと同日開催とするなどの策士ぶりを発揮、翌1949年(昭和24)の国際水泳連盟(FINA)復帰につなげるなど大胆な組織運営を行ないました。

 

その後も田畑は1952年(昭和27)のヘルシンキオリンピック、1956年(昭和31)のメルボルンオリンピックと二大会連続で日本選手団の団長を務めました。

 

戦後間もない時期から東京へのオリンピック招致を訴えており、五輪招致活動においては中心人物の一人として以前から親交のあったフレッド・イサム・ワダなどの人物を招致委員に引き込むなど活躍します。

 

1959年(昭和34)に1964年(昭和39)の東京開催が決定すると、田畑もその組織委員会の事務総長に就任し、開催に向けて活動しました。女子バレーボールを正式種目に加えるためのロビー活動の陣頭指揮にも立ったと言われています。

 

大河ドラマの中では、阿部サダオ扮する田畑政治が体育協会や水泳連盟のために首相や大臣たちから国の予算をかき集める姿が描かれています。そして、オリンピックでメダルを獲ることによって、戦後日本の暗いムードを一変して明るくしたいという、希望に満ちあふれた人物像が見えてきます。

 

北浦和のスポーツ整体、カイロのボディブラでは、疲労回復を考慮した、クライアントのニーズに合った施術を行なっていきます。