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北浦和の整体。大相撲力士、ジェシーこと、高見山大五郎。

2019/07/16
北浦和の整体。大相撲力士、ジェシーこと、高見山大五郎。

1972年(昭和47)の今日、大相撲7月名古屋場所で、ハワイ出身の高砂部屋力士、高見山大五郎が優勝しました。史上初の外国出身力士による幕内優勝でした(13勝2敗)。

 

高見山大五郎は1944年、アメリカ合衆国ハワイ準州マウイ島の出身で、身長192cm、体重205kg。本名は渡辺大五郎、米国名は Jesse James Wailani Kuhaulua、愛称はジェシー。 

 

高見山の四股名は、初代高砂、また優勝制度確立後初の優勝力士(高見山酉之助)が名乗るなど、高砂部屋で由緒ある出世名でした。番付に載る前の初土俵の場所だけ、本名の 「ジェシー」 を名乗っていました。

 

十代は、砲丸投げなどの投擲競技を経てアメリカンフットボールに打ち込んでいました。高校時代に交通事故で足腰を負傷して1年間歩行不能になるほどの重傷を負い、後遺症が残りました。1964年(高見山20歳)、当時明治大学相撲部長だった滝沢寿雄らの紹介で師匠高砂(元横綱前田山)にスカウトされ、2月に来日、羽田空港に現れた高見山は初めて体験する冬の寒さに 「いけない。間違ってシベリアに来てしまった」 と震え上がったと言います。

 

一月後の3月場所にて初土俵を踏みます。5月場所4日目には対戦相手の吉瀬川が何もせずに土俵から逃げ出したが ”逃げ出し” は決まり手にできずに仕切り直しとなったというエピソードもあります。

 

新弟子時代にはちゃんこの味に馴染めず初めは少しだけ汁をすくって食べるのが精一杯で、中でも白身魚が大嫌いだったようです。ちゃんこに完全に慣れるまでには1年かかったと言われています。入門当初は体が硬く、股割りの稽古の際に涙し、そのときに言ったといわれる 「目から汗が出た」 は名言となり、様々なドラマやお笑い番組で真似されました。

 

若い頃は心労が溜まってもすることがなく(パスポートは親方が預かっていたため、許可がなければ帰国できませんでした)、慣れない力士生活に苦労が絶えませんでした。

 

中国・韓国など東アジア圏の出身者を除けば、外国出身者として当時最も上位で活躍した力士であり、後の各国出身力士、特にハワイ勢(ポリネシア勢)の活躍の道を開きました。アメリカ人らしい陽気さと巨体を持つのと同時に、異境での辛い修行に耐え忍ぶ古来の日本人のような生き方も広く知られ、相撲ファン以外にも絶大な人気がありました。

 

弟弟子になる小錦を自らスカウトし、自分の弟子である曙を横綱まで育てるなど、大相撲の国際化にも大きく貢献し、ハワイ出身の関取としては、このほかに大喜を育てました。最近は、高見盛の師匠としても知られ、師弟2代で角界の人気者となりました。

 

2009年6月15日に日本相撲協会を定年退職、同年5月場所限りで現役を引退した弟子の潮丸が、師匠の退職と同時に”東関大五郎”を襲名し、東関部屋を継承しました。その際に 「もう一度ハワイ出身の力士を育てたい」 と語っています。また、「一番の思い出は曙が横綱になったこと。師匠としては最高の瞬間だったし、今でも誇りに思う。」 とも語っています。

 

その年に開かれた定年を祝う会では、オバマ米大統領(当時、ハワイ出身)から祝電が届きました。高見山の定年退職を受け、アメリカ合衆国下院は2009年6月15日に高見山の日本相撲界への貢献と日米親善に尽くした功績を称え、本会議で異例の感謝決議を行ないました。

 

10月に第57回菊池寛賞の受賞が発表され、スポーツ関係者の受賞は2001年のイチロー以来で大相撲関係者としては史上初の受賞となりました。また12月にはスポーツ功労者に選ばれました。

 

現役のときも引退してからもテレビ出演の多かった高見山ですが、後に横綱となる愛弟子、曙をスカウトしたのは、故郷ハワイでの 『高見山の新弟子探し』 というテレビ番組の企画に乗っかる形で、地元の後援者から紹介されたものだったと言われています。

 

私は高見山というと、ふとんのコマーシャルを思い出します。「ニバイ、ニバイ」と大きな体を振るわせながら、満面の笑みでしゃべっていました。

 

北浦和のスポーツ整体、カイロのボディブラでは、高見山のような巨体のスポーツマンにも効果的なメンテナンス・施術を行なっていきます。