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北浦和の整体。第55回ボストンマラソンの話。

2019/04/19
北浦和の整体。第55回ボストンマラソンの話。

1897年(明治30)の今日、第1回ボストンマラソンが開催されました。

 

そして、1951年(昭和26)の今日、第55回ボストンマラソンで、日本人で初参加の田中茂樹が優勝しました。

 

ボストンマラソンは、毎年4月の第三月曜日、Patriot's Dayにアメリカ・マサチューセッツボ
ストンで開催される、国際陸上競技連盟(IAAF)ゴールドラベルのマラソン大会で、ワール
ドマラソンメジャーズ(WMM)のひとつでもあります。

 

参加するには資格タイムを満たしている必要があり、”選ばれし者のマラソン”と称され、完走者の平均タイムがWMMの中でも抜きんでて速く、大半が4時間未満でゴールします。120年以上の歴史をもち、近代オリンピックに次いで歴史の古いスポーツ大会のひとつです。

 

コースは周回や往復ではなく、マサチューセッツ州の8つの市や町を通り抜ける形でスタート地点とゴール地点を結ぶコースとなっています。

 

下り基調でスタートしながら、いくつかの上りがあり、特に30km過ぎの”心臓破りの坂”と呼ばれる上り坂(4つあるニュートンヒルズの最後の坂)は、単独の高度上昇量は他のWMMと
比較してそれほどではないものの、走行距離的に身体への負担が実感される地点と重なって
いることもあり、難所とされています。

 

田中茂樹は、中国山地の農村・広島県比婆郡敷信村(現・庄原市)に生まれ育ち、14歳のときに国民学校での朝礼中、130キロ離れた広島市に投下された原爆の閃光を見ます。まもなく大やけどを負った被爆者が、田中の住む村にもたくさん運び込まれ、「アメリカは人殺しの国だ」と憎悪を募らせます。

 

学校までの4キロの砂利道を走って通ったことがランナーの原点。広島県比婆西高校(現・広島県立庄原実業高校)在学中の1949年から中国駅伝で3年連続区間賞を獲得するなど活躍し、各地のロードレースに出場。1951年、海外派遣選手の予選会になった山口のマラソン大会で2時間28分16秒の戦後の世界最高記録をマークし、19歳で日本が初参加したボストンマラソン代表のひとりとなりました。

 

日本は戦後初のロンドンオリンピックには出場が許されず、世界的な世界的な規模の大会に出るのはボストンマラソンが初めてで、日本に対する関心は薄いものでした。マラソンチーム監督の岡部平太は「民族の誇りを復活させるには、アメリカで国民的行事であるボストンマラソンを制するのが1番」と考えていました。田中もまた「アメリカはまだ敵国」のイメージを持っていました。

 

田中は、ボストン到着後、国防総省の関係者に連行されて尋問を受けることになります。多く
の被曝写真を見せられ、「これは本当なのか」と質問されました。翌日のアメリカの新聞は田中を”アトムボーイ”、全滅したと思われた広島から選手が出場、と大きく書きたてました。

 

当時の多くのアメリカ人の日本に対する認識はこの程度でした。4月19日レース当日、田中は「原爆で負けたと言われたくない」と奮起し、2時間27分45秒で見事ゆうしょうを果たします。また他の日本選手3人も入賞します。

 

田中は広島の山奥育ちで、原爆とは関係ありませんでしたが、「19歳の原爆ボーイに冠」、「敗戦国の日本が戦勝国に乗り込んでの勝利」などと田中優勝を伝えるビッグニュースが世界
を駆け巡りました。

 

敗戦で肩身の狭い思いをしていたアメリカ在住の日本人は涙を流して喜び、敗戦以来アメリカの地で「おれは日本人だ」と心の底から叫ぶことができたのは、このときが初めてであったろうと言われています。

 

田中の優勝は、日本人選手の主要マラソン優勝第1号であり、戦後の日本陸上界の空白を一気に埋めた優勝で、日本人として戦後の国際舞台での初めての優勝だったため、敗戦に打ちひしがれていた日本国民を大いに勇気づけたものでした。

 

この時代、日本のマラソン選手は、まだ指又のあるマラソン足袋を履いていました。田中もマラソン足袋を履いてボストンマラソンを優勝しました。このとき足先が二股に割れた足袋独特のスタイルが、地元のアメリカ人記者には奇異に見えたらしく「指が2本しかないのか?」「足を見せてみろ」と大騒ぎになりました。田中が足袋を脱いでみせると、「なんだ、指が5本あるじゃないか」と、記者たちはホッとした表情になったといいます。

 

北浦和のスポーツ整体、カイロのボディブラでは、今もマラソンランナーとして活躍している方にも、施術、ボディケアを行なっていきます。