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北浦和の整体。巌流島決闘の話。

2019/04/13
北浦和の整体。巌流島決闘の話。

今日4月13日は”決闘の日”と言われています。

 

慶長17年旧暦4月13日(1612年5月13日)、山口県下関市・関門海峡に浮かぶ船島(巌流島)で宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたことにちなみます。(決闘の時期については諸説あるようです)

 

宮本武蔵は、江戸時代初期の剣術家、兵法家で、二刀を用いる二天一流兵法の開祖。

 

京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が後世、演劇、小説、様々な映像作品の題材になっています。60数試合闘って無敗の戦績を残すなど剣豪の中では最も優れた戦績の持ち主です。

 

武蔵が行なった試合の中で最も広く知られているものは、俗に”巌流島の決闘”と言われるこ
の闘い。

 

熊本藩の二天一流に伝わる武蔵伝記、『武公伝』には、巌流島での勝負の様子が詳細に記されています。

 

『巖流小次郎は富田勢源の家人で、常に勢源の打太刀を勤め三尺の太刀を扱えるようになり、18歳で自流を立て巖流と号した。その後、小倉城主の細川忠興に気に入られ小倉に留まった。

 

慶長17年に京より武蔵が父・無二の縁で細川家の家老・松井興長を訪ね小次郎との勝負を願い出た。興長は武蔵を屋敷に留め、御家老中寄合で忠興公に伝わり、向島(舟島)で勝負をすることになった。勝負の日、島に近づくことは固く禁じられた。

 

勝負の前日、興長から武蔵に、勝負の許可と、明日は小次郎は細川家の船、武蔵は松井家の船で島に渡るように伝えられた。武蔵は喜んだが、すぐに小倉を去った。皆は滞在中に巖流の凄さを知った武蔵が逃げたのだと噂した。武蔵は下関の問屋・小林太郎右衛門の許に移っていた。興長には、興長への迷惑を理由に小倉を去ったと伝えた。

 

試合当日、勝負の時刻を知らせる飛脚が小倉から度々訪れても武蔵は遅くまで寝ていた。やっと起きて、朝食を喰った後、武蔵は、太郎右衛門から艫を貰い削り木刀を作った。その後、太郎右衛門の家奴(村屋勘八郎)を漕ぎ手として舟で島に向かった。

 

待たされた小次郎は武蔵の姿を見ると憤然として「汝後レタリ(来るのが遅い!)」と言った。

木刀を持って武蔵が汀より来ると小次郎は三尺の刀を抜き鞘を水中に投げ捨てた。武蔵は「
小次郎負タリ勝ハ何ゾ其鞘ヲ捨ント(小次郎、敗れたり。勝つつもりならば大事な鞘を捨て
はしないはずだ。)」と語った。小次郎は怒って武蔵の眉間を打ち、武蔵の鉢巻が切れた。

同時に武蔵も木刀を小次郎の頭にぶつけた。倒れた小次郎に近づいた武蔵に小次郎が切りか
かり、武蔵の膝上の袷衣の裾を切った。武蔵の木刀が小次郎の脇下を打ち骨が折れた小次郎は気絶した。

武蔵は手で小次郎の口鼻を蓋って死活を窺った後、検使に一礼し、舟に乗って帰路に着き
半弓で射かけられたが捕まらなかった。』

 

この中で出てくるそれぞれの言葉だけが独り歩きして名言ともなっていますが、勝負の結果やそれぞれのその後の動向などについては、いろいろな書物の中で、いろいろな説があり、真実がわかっていないのが実情です。

 

北浦和のスポーツ整体、カイロのボディブラでは、ライバルとの闘いに炎を燃やしている人にも、施術、ボディケアを行なっていきます。