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北浦和の整体。イチロー引退の話(続編)。

2019/04/01
北浦和の整体。イチロー引退の話(続編)。

先週、大リーグ・マリナーズのイチローがプロ野球選手としての第一線から引退することを表明しました。

 

先日のブログの続きを書きます。

 

高校卒業後、ドラフトでオリックス・ブルーウェーブに入団したイチローは、1992年7月11日、福岡ダイエーホークス戦で、守備固めとしてレフト途中交代、1軍初出場を果たし、翌日のダイエー戦で初スタメン出場、プロ初安打を記録しました。

 

1993年4月の開幕戦は9番センターとしてスタメン起用されますが、その後は控えにまわり、6月にまたスタメンに戻りますが、打率1割台の不振のために2軍に戻されます。

 

2軍生活の中で、イチローはあの”振り子打法”を作り上げます。2軍では、前年から続いて2シーズンにまたがる46試合連続安打を記録し、1993年には2軍で打率.371を残します。

 

1994年の公式戦開幕直前に、登録名を本名「鈴木一朗」から「イチロー」に変更、日本人選手としては初めて、名字を除いた名前での選手名登録となりました。

 

この年から監督になった仰木彬は、イチローの類い稀な打撃センスを買って即座に一軍に呼んで、2番打者に抜擢します。今までのコーチから受け入れられなかった打法も、新しい1軍打撃コーチ・新井宏昌に理解され、レギュラーとして活躍します。

 

4月末から1番打者に定着、8月までに69試合連続出塁の日本プロ野球新記録を達成します。9月には日本プロ野球タイ記録の1試合4二塁打を記録し、次の試合でシーズン最多安打記録(191本)を更新。122試合目には日本プロ野球史上初のシーズン200本安打を達成します。

 

このシーズン、最終的には安打数も210本まで伸ばし、打率では、史上初の4割打者誕生はならなかったものの、パシフィックリーグ新記録の打率.385を残して首位打者を獲得しました。そして、打者としては史上最年少でシーズンMVPを獲得しました。

 

1995年の開幕前1月17日に発生した阪神淡路大震災において、本拠地の神戸市が壊滅的な
被害を受けて、イチロー自身も市内にあるオリックスの寮で被災します。この年のオリックスは「がんばろう KOBE」を合言葉にスタートすることになります。

 

イチローはこの年、震災からの復興を目指す”神戸のシンボル”的な存在として活躍します。首位打者・打点王・盗塁王・最多安打・最高出塁率を獲得、”打者五冠王”になりました。2年連続のシーズンMVP、ベストナイン・ゴールデングラブ賞・正力松太郎賞も受賞し、オリックスは悲願のリーグ優勝を達成します。

 

1998年は、打率.358、181安打でシーズンを終え、張本勲の4年連続を抜いて史上初の5年連続首位打者を達成、5年連続・通算5回目の最多安打も記録しました。

 

1999年シーズン開幕前2月にオリックスと業務提携を結んでいたシアトル・マリナーズの春季キャンプに2週間参加します。シーズンでは開幕から調子が上がらず、数年間のスランプを引きずっていましたが、4月11日、ナゴヤドームでの西武戦の最後にセカンドゴロを放ち、後に「この打席がきっかけで自分の打撃が開眼した」と語っています。4月20日の対日ハム戦で本塁打を放ち、史上最速となる757試合目で通算1000本安打を達成します。

 

先日の記者会見の中で、「イチロー選手の生きざまでファンに伝わっていたらうれしいということはあるか」との質問に対して、イチローはこう答えています。

 

「人より頑張ることなんてできない。あくまでも測りは自分の中にある。自分なりにその測りを使いながら、自分の限界を見ながらちょっと超えていくということを繰り返していく。そうすると、いつの間にかこんな自分になっているんだという状態になって。」

 

「一気に高みに行こうとすると、今の自分の状態とギャップがありすぎて、それは続けられないと僕は考えているので。……後退もしながら、あるときは後退しかないときもあると思うので。でも自分がやると決めたことを信じてやっていく。」

 

小さい頃からコツコツ野球に取り組んできたイチロー選手らしい言葉だと思います。

 

今日はこの辺で終わります。続きはまたの機会に。

 

北浦和のスポーツ整体、カイロのボディブラでは、練習に打ち込む野球青年にも効果的なメンテナンス・施術を行なっていきます。