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北浦和の整体。伊藤みどりの話。

2019/03/18
北浦和の整体。伊藤みどりの話。

1989年(平成1)の今日、伊藤みどりがフィギュアスケート世界選手権で、日本人選手として初優勝しました。

 

小学校4年で全日本ジュニア選手権に優勝し、世界ジュニア選手権に史上最年少の日本代表
になり、フリー1位、総合8位となった”天才少女スケーター” 伊藤みどりについてご紹介します。

 

スケートを始めたのは3歳のころで、近所のスケートリンク(名古屋スポーツセンター)に家族連れで行くようになったのがきっかけでした。

 

5歳のときに、このリンクで後にコーチとなる山田満知子に出会います。山田が教えていた子供たちのスピンやジャンプを真似して遊んでいたところを山田に見出されます。伊藤は山田の小学生の教え子たちよりもうまく、ジャンプは飛び抜けてうまかったようです。

 

1983年11月にヨーロッパに遠征、シニアでの国際デビューを果たします。プラハ国際選手権では5種類の3回転ジャンプを成功させ、国際大会で初優勝します。エニア・チャレンジ・カップ(オランダ)で、ヨーロッパ選手権覇者のカタリナ・ヴィットに次いで2位となります。

 

1984年サラエボオリンピック(ユーゴスラビア)の出場の際、前年7月1日時点で13歳の伊藤には、年齢制限のため原則、出場資格がありませんでした。ただし、『オリンピック開催年に世界ジュニア選手権で3位以内に入れば資格が与えられる』という特例措置がありました。

 

1984年世界ジュニア(札幌)での3位以内を目標にした伊藤は、規定で13位となりほぼ絶望
的となりますが、ショートプログラム1位、フリー1位と、追い上げて総合3位となり、出場資格を得ました。

 

しかし、代表最終選考会の1984年1月の全日本選手権で、また規定で10位と出遅れ、ショートプログラムでは右足首に痛みを感じるなどの不調で、転倒して5位。フリーで1位と追い上げましたが、加藤雅子に次ぐ総合2位に終わり、オリンピックと世界選手権への出場枠は1名ずつだったため、加藤がオリンピック、伊藤が世界選手権に派遣されることが決められました。

 

伊藤は、1984年オタワ世界選手権(カナダ)に初出場し、7位入賞しました。

 

1985年、中学3年で全日本選手権初優勝以降、1992年まで優勝を重ねて、渡部絵美と並ぶ
史上最高の8連覇を達成します。

 

1987年シンシナティ世界選手権(アメリカ)は、規定の出遅れから総合8位に終わりますが、翌年のカルガリーオリンピックの出場枠2を確保。1988年1月に全日本選手権で優勝し、念願だったカルガリーオリンピック(カナダ)への初出場を果たしました。

 

大会には”女らしさ”、”優雅さ”を意識した演技で競技に臨みました。規定で10位、ショートプログラムは4位、フリーでは5種類の3回転ジャンプを7度決めました。技術点では5.8-5.9点と出場選手中最高点をマーク、芸術点は5.5-5.7点(芸術点だけで5位)と低く抑えられ、フリーは3位、総合5位入賞を果たしました。

 

5位入賞は、1964年インスブルック大会(オーストリア)の福原美和と並ぶ冬季オリンピックのフィギュアスケート日本代表選手最高位の記録(当時)で、6位以内の入賞は、1980年レークプラシッド大会(アメリカ)の渡部絵美以来8年ぶりでした。大会最終日のエキシビションでは当時としては珍しく、総合5位ながら演技者の1人に選ばれました。

 

1988年7月、国際スケート連盟のルール変更によって規定の課題数が3課題から2課題になります。規定が大の苦手だった伊藤にとって有利な状況になったことは間違いありません。

 

この続きはまた明日…

 

北浦和のスポーツ整体、カイロのボディブラでは、フィギュアスケートに打ち込んでいる方にも、施術、ボディケアを行なっていきます。