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北浦和の整体。奥寺康彦の話。

2019/03/12
北浦和の整体。奥寺康彦の話。

1952年(昭和27)の今日は元全日本代表のサッカー選手・奥寺康彦の誕生日です。

 

1970年代、世界最高峰と言われたドイツのブンデスリーガで活躍した初めての日本人、奥寺康彦についてご紹介します。

 

秋田県鹿角市出身。横浜市立舞岡中学校でサッカーを始め、相模工業大学附属高校(現:
湘南工科大学附属高校)卒業後、1970年、日本サッカーリーグ(JSL)の古河電工サッカー
部に入部しました。

 

1976年、ブラジルに古河の工場があったおかげで、ブラジル・パルメイラスに2カ月留学して、そこで急成長し、ユース代表を経て日本代表に選出されました。その年、日本代表ではムルデカ大会(マレーシア、国際サッカートーナメント)で得点王になり、古河ではJSLと天皇杯の二冠に貢献してベストイレブンに選ばれています。

 

1977年(奥寺25歳)夏に日本代表のドイツ合宿の際、奥寺を含む数人が1.FCケルン(ブン
デスリーガ)の合宿に参加することになり、幸運にも、スピードのある左ウィング(奥寺のポジション)を探していたケルンの監督・バイスバイラーに見初められ、奥寺にオファーがかかりました。

 

「ブンデスリーガで通用するのか」、「失敗したとき家族を養えるのか」という不安で、一度辞退するのですが、来日するまでのバイパスラーの執拗な勧誘と、日本サッカー協会からの強引な背中押しがあり、ドイツ行きを決意するのでした。

 

当時は試合毎に欧州-日本間を行き来する習慣がなかったため、欧州リーグに移籍している間は日本代表参加はできないことが、欧州移籍を渋らせた大きな要因でもありました。

 

1.FCケルンでは、1977年12月20日に行なわれたドイツカップ準々決勝、シュバルツバイス・エッセン戦で初ゴール(2得点)、ブンデスリーガで1978年4月8日のカイザースラウテルン戦で初ゴールを挙げました。バイスバイラー監督の下で数多くの活躍を見せて、1977-78シーズンのリーグ優勝とドイツカップ優勝の二冠に貢献。優勝を決めた試合では2ゴールを挙げました。

 

次の1978-79シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは準決勝に進出。ノッティンガム・フォレスト(イングランド)と対戦し、アウェーの第1戦で貴重な同点ゴールを決めて3-3のドローに追いつきましたが、ホームの第2戦で0-1で敗れ欧州制覇は成りませんでした。

 

1980年にバイスバイラーがニューヨーク・コスモス(アメリカ・NASL)へ移籍。奥寺は後任のカールハインツ・ヘダゴット監督の構想外となり、ベンチからも外され、チャンスを求めて1980-81シーズン後半にブンデスリーガ2部のヘルタ・ベルリンへ移籍しました。

 

その年、ヘルタは1部昇格を逃しましたが、ヘルタに競り勝って1部昇格を果たしたヴェルダー・ブレーメンの監督、オットー・レーハーゲルに認められ、次の1981-82シーズンからブレーメンに移籍することになります。

 

レーハーゲルは守備的ミッドフィールダー(MF)としての奥寺の能力に目をつけ、守備の強さ、確実なプレーに惹かれて、80年代半ばからヨーロッパの主流となった3-5-2システムの中で、奥寺は左ウィングバックという”天職”を与えられました。

 

守備を行ないながら、味方ボールとなると、ウィングそのものとなって攻撃の中核を担うプレーヤー。「オク1人で3人分の働きをしてくれる」とレーハーゲルは語っています。

 

ブレーメンには5年間在籍し、優勝こそなかったものの、奥寺は最もコンスタントに戦える選手として監督に信頼され、ファンからも愛される選手になっていました。

 

ブンデスリーガには通算9年間在籍して、63試合連続出場の記録を樹立、1986年に帰国するまでブンデスリーガ通算234試合に出場、26得点。この記録は、2014年9月13日にマインツの岡崎慎司が通算ゴールを28点とするまで、ブンデスリーガにおける日本人選手の最多得点でした。また、通算234試合出場も、2017年3月5日に長谷部誠が更新するまで、ブンデスリーガにおける日本人選手の最多出場でした。

 

北浦和のスポーツ整体、カイロのボディブラでは、サッカーに打ち込んでいる方にも、施術、ボディケアを行なっていきます。