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北浦和の整体。米田一典の話。

2019/02/26
北浦和の整体。米田一典の話。

2012年(平成24)、7年前の今日、元全日本女子バレーボールチーム監督・米田一典が61歳で亡くなりました。

 

日本のバレーボール元選手・指導者の米田一典についてご紹介します。

 

米田は広島県広島市の出身。1968年、崇徳高校3年の高校総体で、セッター/主将として、中大附属高校を降して優勝。同じ年の国体では、柳本晶一(元全日本女子バレー監督)のいる大商大附属高校を降して優勝して2冠を達成しました。

 

1973年、法政大学在学中に日立女子バレー部のコーチになり、1975年に監督に昇格、日立チームを強豪へと育て上げました。

 

1974年、全日本女子チームのコーチに就任し、山田重雄監督の片腕となり、1976年モントリオールオリンピック、1977年ワールドカップの金メダル獲得に貢献しました。

 

1984年ロサンゼルスオリンピックで、全日本女子監督に就任して、江上由美、三屋裕子、杉山加代子らを率いて銅メダルを獲得。1990年に再び全日本女子監督になり、このときの米田が事実上、プロ代表監督第1号となっています。

 

1992年バルセロナオリンピックでは、5位の成績を残し、全日本女子バレー監督として、通算204勝108敗。この記録は、小島孝治の232勝154敗に次ぐ、歴代2位となっています。

 

2001年、日立製作所本社のリストラの一環として、日立ベルフィーユは廃部に追い込まれ、米田は監督として、チーム全体が移籍できる企業を探しましたが、景気低迷の折、全体移籍はできませんでした。

 

米田は、企業丸抱えのチーム運営システムに限界を知り、2003年に香川県高松市で、地域密着型スポーツ振興を念頭に、NPO法人”J-HOTバレーボール連盟”を設立して理事長に就任。香川県内でバレーボール技術指導の活動を行ないながら、新クラブチームを立ち上げる準備を進めていきました。

 

2005年に女子バレーのクラブチーム”四国Eighty 8 Queen”を発足させ、その監督となり、2007年の実業団地域リーグで優勝し、入替戦でも勝ってチャレンジリーグに昇格を果たしました。

 

2011年、資金不足のためチームは活動休止となり、次に仙台を本拠地として、”仙台ベルフィーユ”を立ち上げました。

 

チーム名は、古巣の”日立ベルフィーユ”から採ったもので、強豪の復活と東日本大震災からの復興を願って付けたものでした。

 

米田が「なぜ仙台に移ったか」については、大きな意味があると思います。地域密着型のチーム作りが必要だからこそ、復興しなければならない場所だったからこそなのです。
 

しかし、その年の秋、病に倒れ、治療に専念しましたが、翌年の2012年2月26日に肺がんのためこの世を去りました。

 

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