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北浦和の整体。第1回箱根駅伝の話。

2019/02/14
北浦和の整体。第1回箱根駅伝の話。

1920年(大正9)の今日、第1回箱根駅伝が開催されました。

 

第1回東京箱根間往復大学駅伝競走についてご紹介します。

 

1917年(大正6)に日本で初めての駅伝、読売新聞社が上野で開く博覧会のイベントとして企画した「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」が、京都三条大橋ー東京・上野不忍池間で行われました。京都ー東京の516キロを23区間に分け、3日間、昼夜を通して走ってつなぐ大規模なたすきリレーでした。

 

東西対抗で行われた、この「東海道駅伝」は、大成功、箱根駅伝の”原型”となりました。

 

1919年10月、「東海道駅伝」の成功に意気を盛り上げた、ストックホルムオリンピック(1912年)マラソン代表・金栗四三、東京高等師範教授・野口源三郎、明治大学・沢田英一の間で、アメリカ大陸をリレー形式で走って横断する計画が持ちあがり、代表選考会を開催することになりました。

 

原動力となったマラソンの父・金栗四三は、ストックホルムオリンピックでは途中棄権しており、失意のまま帰国、「世界に通用するランナーを育てたい」との思いを強くしていました。

 

関東の大学・師範学校・旧制専門学校に参加募集した結果、長距離選手を10人も出せる学校は少なく、参加した学校は、東京高等師範学校(金栗四三の母校、現在の筑波大学)、明治大学、早稲田大学、慶応義塾大学の4校だけでした。

 

第1回大会の名称が「四大校駅伝競走」となったのはそのためでした。

 

当時は、多くの犠牲者を出した第1次世界大戦が終わったばかりで、工業地帯がだんだん西に延びて、東海道の道幅も広がっていっていました。

 

スポーツ界にも、こうした時代の大きな渦を反映して「やってやろうじゃないか」というチャレンジ精神と気力がみなぎっていったのです。

 

コースは現在とほぼ同じで、往路が、有楽町報知新聞社前⇒鶴見⇒戸塚⇒平塚⇒小田原⇒箱根関所址、復路が、その逆をたどり、有楽町報知新聞社前をゴールとしていました。

 

1920年2月14日は土曜日だったため、午前中の講義を受けた後に、有楽町報知新聞社前を午後1時にスタートし、復路は、翌日15日に箱根関所址を午前7時にスタートしました。

 

往路スタートが午後だったため、後半は真っ暗になり、松明を灯しながら走り、ゴールの合図は花火を打ち上げたようです。

 

往路は、明治が7時間30分36秒、2位・東京高師との差8分27秒で優勝、復路は、東京高師が7時間26分13秒、明治との差8分52秒で優勝。総合優勝は東京高師校・15時間05分16秒でした。

 

復路で逆転優勝した東京高師の、往路での明治との差、『8分27秒』は、100年近くたった今でも、最大差の逆転劇です。

 

カイロのボディブラでは、本年も日々進歩して、クライアントが気になる症状への確実な対処や根本的改善を目指し、効果的な施術を行なっていきます。